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ベトナム旅行記 5

1月30日(金) 
 
◆ 古都フエへ

 
 午前11時30分発VN-245便にてフエへ向かい、1時間10分程でフエ空港着。 フエはベトナム戦争の激戦地としても有名だ、この空港も当時アメリカ軍の手で造られたもので、野原に滑走路が一本だけのもっぱらフエ観光客用の空港のようだ。空港の建物は現在新(改?)築のようで、プレハブのガレージのような建物で荷物を受け取り外へ。ホーチミンから出張ってきたガイドのファンさんに出迎えられる。

   
フエは,半そでシャツのあたたかさだ!

 ここは北緯16.5°暖かい。一転、半そでの世界、車のエアコンは冷房運転だ。
 空港から国道1号線で約20分で市内。道路は4車線で快適に走行。

 町中のレストランで昼食(おなじみの生春巻きとフエ名物の太目でやわらかいビーフン麺のブン・ボー・フエ、空心菜など)。
 
 外に出ると、売り子が寄ってきて香木でつくったお椀やら絵葉書を買ってくれと言う。
とりあえずは無視して、フエ王宮の観光へ向かう。
                            
 
◆ 阮朝王宮
 
 
フエは町全体が世界遺産

 に指定されるほど文化遺産の豊かなところだが、 ベトナム戦争当時フエは最も激しい戦いがあったところでもある。 いわゆる「テト攻勢」の時、アメリカ兵が古城の壁を背に戦い、 そして多くの建物がベトナム戦争中に破壊されたという。
 
 古都フエの中をゆったりと流れるフォーン川を渡り、ベトナム最後の王朝であるグェン(阮)朝歴代の王宮を訪ねる。ちなみにフォーンとはベトナム語で「香り高い」という意味で、フォーン川は漢字では香江と書く。

 王宮の周囲は高さ5mの城壁で囲まれ、その外側に内堀がめぐらされている。王宮内には皇族の屋敷や菩提寺などがある。1804年に北京の紫禁城をモデルとして建造が開始されたと言う。
 
 城壁には東西南北4つの門があるが旅行者は午門(王宮門)から入場する。門前に蓮池があり中央にかかる金永橋は皇帝だけが渡ることができたそうだ。
 
 王宮門の外側、フォーン川に面した方にあるのが フラッグタワー。ポールの高さは37m。当初は木造、台風でたびたび倒壊、現在のものは1949年に完成したという。1968年のテト攻勢の時には24日間にわたり解放軍の旗がかかげられたそうだ
午門と蓮池 大和殿 陶器のかけらで作ったドラゴン 弾痕が残っていると言うフラッグタワー

 太和殿は皇帝の即位式や国賓の歓迎式典などを行った場所。北京紫禁城の太和殿のミニ版といったところか。ベトナム戦争中の1968年に完全に破壊され1970年にコンクリート造りで再建されたという。中に焼け残った木製の太い柱が2本展示されている。内部は撮影禁止。
 
 出口でポケットサイズの写真集「フエ」を7US$でもとめる。(日本語解説があったのでつい買ってしまったが内容はたいしたこと無かった)

 王宮内の建物の屋根の飾りが面白い!陶磁器をわざわざ破片に欠いてそれを貼り付けて龍などいろいろな文様を描いている。ベトナム独特の手法で、この後あちこちで見られた。
 
 この後、王宮で使用された調度品や工芸品がガラスケースに納められている、かつて皇族が休憩に使っていたと言う平屋の建物や図書館をざっと見学する。


  
げっつ!ガレキの野っ原だ

 大和殿の裏手は、大部分の建物は失われ、だだっ広い空き地が広がるのみである。ベトナム戦争でアメリカ軍の爆撃を受け、破壊しつくされてしまった。午門は日本の援助などで修復が行われたと言うが、城内の塀にはまだ銃痕が残っており、今後の修復が待たれる。



 王宮の西南隅に顕臨閣がある。庭には歴代皇帝の名前を記し、草木や鳥獣などの文様が多数陽刻してある9つの大きな青銅の鼎(かなえ)が置かれているグエン朝の菩提寺。

◆ ティエンムー寺境内を散策
 
 王宮から15分ほど、両側に串焼き肉屋などが並ぶ、砂埃のたつ田舎道を行くと八角形の塔が見えてきた。
トゥニャン塔といい、7層あって高さは21.2mある。

 奥の寺に向かう。この寺はフォーン川を見下ろす高台の上に建つ寺院で1601年、「この地にパゴダを建てれば国が繁栄する」という老婆のお告げによって建立され、1844年に完成したフエでは一番大きい寺である。
 
 寺の境内は静かで、庭をゆっくり散策する。
 
 境内の一隅に、オースティンが展示されている。一瞬 ? となったが、背後の写真を見てすぐに分かった。当時、日本でもショッキングな出来事として報道された焼身自殺の写真だ!
ベトナム戦争の際、1963年、南ベトナムゴジェンジェム政権の仏教弾圧に抗議してサイゴンで焼身自殺を遂げた、このお寺出身のクアン・ドゥック僧がサイゴンまで乗っていった車だという。

◆ フォーン川をボートで下る

 ティエンムー寺の下の川岸からボートでクルージングを楽しみながら市内のホテルへ戻る。

 出航するとすぐ船長の奥さんが絵葉書や刺繍の絵や袋物を船内に広げて販売を始めた。客は3人のみ。フエの風景などの刺繍はなかなかのもの。1枚5ドルだと言う、値切りを2ドルからはじめたが、この奥さん、非常にしっかりしている。決してまけない。子供2人を船上で育てているたくましさに根負け! 結局4ドルでシェークハンド。
 若い奥さんをからかい半分値切り交渉をしているうちに、船はホテルの裏手に到着。

 
いまは静かな美しい眺めだが、雨季には洪水必死だろうなあ〜

 船から岸辺を眺めながらふと気づいたのだが、こんな大河なのに、フォーン川には堤防が無い、水面から1m足らずのところに道路や建物が建っている。雨季になったら完全にアウトだ。
 
 インターネットでのあるサイトに次のような記載があった。
 
 
「フォン川は、毎年数回の氾濫を繰り返します。その度に我がベトナム事務所では、机やパソコンの移動を行います。年中行事となってはいますが、本当に困ったものです。
 
 フォン川氾濫の原因はいくつかあります。フォン川上流の山岳地帯にベトナム戦争中、大量の枯葉剤が散布されました。そのためジャングルが破壊されました。また、1976年に社会主義となった後の経済政策の失敗等もあり多くの市民が生活できなくなり、山に入り、木を切り「焚き木」にしたり「焚き木」として売って生活を立てていました。
 
 フォン川上流の山岳地帯の「保水力」がなくなり、大量の雨水が一気に下流に流されてきます。
 また、山岳地帯から海までの距離が短いため、山から急流となって流れてきた水が、フエ市内で「緩やかな流れ」となり、土石が堆積し、水深が浅くなり「洪水」が発生します。

 未だにベトナム戦争の後遺症がこうした形でベトナム市民を襲っている事に心が痛みます。」

河岸にはびっしり家屋が並ぶ 水上生活者の船溜まり ホテルの窓からフォーン川


 今晩のホテルは、フォーン川に面していてライトアップされたチャンティエン橋の眺めが素晴らしい。

 
  あれえーっ バスタブにお湯が貯まらないよ〜

 バスタブにお湯を貯めんと蛇口をひねって、もうそろそろ良かろうと、裸になって足を入れたらなんと水ではないか!
 
 ルームサービスに電話して「お湯がでないよ〜」って言ったら、さっそく飛んできてくれた。係りの人、「バスタブに水を張ってはだめです。1回に50リットルのお湯しか使えません」とのこと。

 部屋毎に、タンクがある給湯システムとなっているようだ。
 
 身体を湯に浸す日本スタイルは通じないと言うこと。納得!納得! シャワーも冷たい水が出てこないうちにシャワーを終わらせないと、いかんということだ。ちなみに1度使ったら、次は15分たってから使用してくださいと言うことでした。

 夕食は町の中のレストラン。 
 宮廷料理というふれこみでしたが、ご希望があれば皇帝用をあしらった椅子で食事できるよと言うことで、料理はお決まりのベトナム料理。地方地方で少しずつ味付けが違って、美味しいのだがいささか飽きが来たと言えなくも無い。
 
 ちなみに今晩の料理は

   かにスープ・エビのてんぷら・お好み焼き・生春巻き・揚げ魚・シーフード鍋物

 でした。


◆ フエの歴史

   
ベトナム最後の王朝、阮(グエン)朝(1802〜1945年)に都が置かれた町と言われるが、それより前の歴史が、いまひとはっきりしないと言うかややこしいので、まとめてみた。

 
フエの地が最初に史上に現れるのは、紀元前1世紀前後、中国漢王朝の属領として日南群が設置された頃で、その後、紀元2世紀初め頃から蛮夷の反乱がひっきりなしに起こり、やがて2世紀末にチャム人を主体とした中国史でいう林邑(チャンパ王国)が独立して作られる。
 
 林邑はインドの影響を急速に受けて発展していくが、林邑とこれに続く占城(チャンパ王国)の拠点はフエの近郊からハイヴァン峠の南に移され、(ミーソン遺跡はこの頃造られた)以後フエが史上に再び現れるのは、14世紀になってからになる。

 1307年頃、占城は北部ベトナムを支配していた陳朝に烏・里という2州を割譲し、陳朝はこれに順化(トゥアンホア)という名前を与えた。「フエ」という名前は、このトゥアンホアの「ホア」から来ているとも言われている。

 やがて16世紀になると北部ベトナムの対抗者として中部ベトナムに広南(クアンナム)王朝が出現、1588年に広南阮朝の創始者グエンホアンがフエを含む広南の鎮守として現れる。1600年中央での政争に破れたグエンホアンは広南で独立を決意し、この後北部の鄭氏と阮氏の南北にわかれた抗争が始まる。(南北抗争時代いわゆるチン・グエン時代)

 阮氏は、南への侵攻も盛んに行いチャム族の土地、さらにメコンデルタにも入植してクメール族の土地を奪い取っていった。
 
 17世紀のフエは広南朝の都ではなく、当時は富春社(フースアン)と呼ばれる宗教聖地だった。
フエに都が置かれたのは1686年広南阮朝5代目の阮福湊が王位についてからで、当時の王城は現在の王朝東南角のフースアン区にあったといわれている。

 18世紀前半、広南朝の阮福濶の時代に、ようやくフエは都城と呼ばれ、各種宮殿が整えられるが、1733年西山党の3兄弟の反乱が起き、それに乗じた北部の鄭氏によってフエ城は陥落、広南阮朝は阮福映を残して絶滅する。
  だが鄭氏も西山軍に破れ、1788年から1801年までは、西山阮氏の阮恵がフエを政治的中心として城壁などを築いたが、この西山党による建築は1801年再びこの地に立ち戻った広南阮氏の阮福映(嘉隆帝)によって壊滅される。

 ベトナム最後の王朝となった阮朝創始者の阮福映(嘉隆帝)は1802年フエに遷都し、1805年王城の外壁を建設する。この城壁は1818年から23年にかけてさらに拡張され、約10.6kmkmに及んだ。
 二代目明命帝の時代に、北京故宮にならった皇城が建設された。これが世界遺産となっている王宮である。

 明命帝の時代以後、ベトナムは徐々にフランスに進攻され、1855年ついにフエ王城がフランス軍に占拠される。そして実質的なフエ王権は失われることになる。形骸的な王朝は13代バオダイ帝まで存続し、王城は文化遺産として守られ続けていた。